紀暁嵐故居
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『書法漢学研究』第36号をお届けします。本号も碑、帖、印などにかかわる各種各様の論考が集まりました。玉稿をお寄せいただいた先生方に御礼申し上げます。次号にも購読者諸氏による積極的な投稿をお願い致します。
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本号の最後に掲載されている井谷憲一副理事長による「九十九硯斎紀暁嵐」は、『四庫全書』総纂官紀暁嵐の故居と、その著『閲微草堂硯譜』にかかわる興味深い内容の一編です。今は山西料理専門店「晋陽飯荘」になっている故居についての書き出しは、改革開放の前後に北京を訪れ、風情あるこの界隈の魅力に取りつかれた者にとっては、格別の懐かしさが感じられます。
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この百年近くの間、北京にかかわる知識人の物語は、多くの人たちによって書かれてきました。しかし私は、玉?篆の名手でもあった紀暁嵐と同時期の文人官僚、洪亮吉のことを書いた奥野信太郎「北京時代の洪北江」の右に出る傑作はないと思っています。精細な考証と実地の踏査をふまえ、乾嘉の昔と民国の今を感性豊かに交錯させた空想小説のような傑作です。
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さて、本号の最終頁にも紹介がありますが、このたび萩信雄先生がアートライフ社からシリーズ「民間に眠る名品」の一冊として『?斎蔵詔版集成』を上梓されました。清末の金石学者陳介祺(1813〜1884)旧蔵の秦詔版の拓本十種を原色で収めた貴重な一冊です。
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巻頭には詔版に関する詳しい解説文(「詔版概述」)があり、それぞれの拓本ごとに、懇切丁寧な釈文・訓読・注釈が完備しています。わずか十種とはいえ、無数に存在したはずの詔版銘を、書法の視点から大観するうえでの典型例が集められているようです。ほぼ同じ文章を、ほぼ同じ時期に、多くの人々が総動員されて、集中的に刃物で刻みこんだ銘文です。それだけに今そこに生きている秦代の篆書の字姿に接しているような感じがします。
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隋代の仁寿年間に行われた全国的な舎利塔建立の際の銘文制作も、ほぼ同じ文章を、ほぼ同じ時期に、多くの人々が担当しました。楷書体によるこの銘文群の書法としての様式にも、書写にあたった人物の個人差は歴然としています。
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まさにそのように、はるか昔の秦の始皇帝期の冷徹過酷な時代にも、大忙しで文章を刻み込んだ多くの人々の個人差がはっきりと表れています。秦篆の典型に近いものから、きわめて草卒で簡古なものまで、十種の拓本の文字はそれぞれに様相を異にしていて興味がつきません。殷代の甲骨文の制作でも一部で行われたような、縦画ばかりを刻した後で、横画ばかりを刻したものもあるのかも知れません。
是非とも書架に配して勉学に役立てたい新鮮な一冊です。
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