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メールマガジン Vol.37 2025年7月24日発行


中国館今年4月13日から開催中の大阪・関西万博、建設費の上振れや建設遅れ、入場者数確保難による赤字問題など、在京オールドメディアによる大々的かつ長期的ネガティブキャンペーンにもめげず、連日、大盛況で、8月には黒字化も範疇となり、関西経済波及効果も大変な勢いとなっています。国を挙げての一大事業、純粋に盛り上げていただきたいものです。

僕は仕事柄、やはり中国館が気になり、これまで3度、中国館を訪れました。竹簡を模した敷地面積3500平方の圧倒的迫力の中国パビリオンのテーマは「自然と共に生きるコミュニティの構築 -グリーン発展の未来社会-」です。パビリオン内展示は大きく「天人合一」、「緑水青山」、「生生不息」の3つのゾーンに分けられていました。入館して目に飛び込む古代文の出土品として殷墟出土「甲骨」、弊社近刊「★(竹+甫+皿)齋蔵詔版集成」で取り上げた「秦始皇二世詔版」、睡虎地秦簡など、仕事柄、目が釘付けになる展示品でした。

月の砂 最上階には中国が2024年に人類史上初めて無人探査機・嫦娥で採取に成功した「月の裏側の砂」が展示されていました。前回万博の中国パビリオンで開催された省、自治、市に比較しても最大数で取り組みだそうで、まだ万博に行かれていない方は10月13日まで、是非、訪れてください。



【本号の内容】
 「書法漢學研究」第37号のご案内
 「書法漢學研究」第37号刊行に際して −中村伸夫−
 金石過眼録  −萩 信雄−

「書法漢學研究」第37号のご案内
書法漢學研究第37号  
「柯九思蘭亭」・「独孤蘭亭」・「過雲楼蘭亭」比較研究(上) 張之望・
張嵋珥
増田知之 訳
筆勢の習得と応用にみる敦煌文献中の習字蒙書 玉素甫・
艾沙
『汝帖』に見る法帖文化 橋本吉文
ケ散木「廁簡樓金石書法講座」に関する一考察
―?漢印屏二点を手がかりに
沈 伯陽
端方蔵?と新出刑徒?の拓本 志民和儀
美術商・博文堂と松茂山荘 下田章平
梅舒適と一九七〇年大阪万博の「万国博ホール壁書」について
―二〇二五年大阪・関西万博の開催によせて―
柏木知子・剣持翔伍
【金石餘滴―三】 古銅印に関することども 志民和儀
 
「書法漢學研究」第37号刊行に際して −中村伸夫−

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『書法漢學研究』第37号、玉稿を執筆された先生方に御礼申し上げます。本号も、古法帖に関する論文をはじめ、今期の万博にちなむ記事まで、多様な研究成果を収めることができました。

「定武蘭亭」に関する従来の研究に大きく影響するという新発見の<過雲楼蘭亭>を扱った張之望・張嵋珥氏による巻頭論文(上)は、訳者の増田知之氏による精細な注記と合わせて、はやく全体を通読したいものです。


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30数年前、私は「定武蘭亭」の研究者啓功先生とともに、東京国立博物館を訪れたことがあります。東洋館の一室で富田淳課長(当時)のご配慮により、先生の希望通り呉炳本<定武蘭亭>の詳しい調査が許されました。この論文を読んで、その時の啓功先生の姿を思い起こした次第です。論文の「三・価値の方向」に啓功先生の研究に触れた個所があります。東博の一室で親しく呉炳本に対しながら、自己の見解について「内心は矛盾に満ちていた」であろうことが、今になって想像されます。 

玉素甫・艾沙氏による、敦煌文献の習字関連蒙書を扱った論文も、次号による後編の掲載が待たれるところです。われわれ日本人には、とかく誤解されがちな「筆勢」というもの。その初歩的学びについて、敦煌の地での訓練実態が明らかにされています。敦煌で行われていたことは、この地だけのことではなかったかも知れません。とにかく敦煌文献の蒙書が今日に伝わったことの意義は絶大です。

最後の一編は、現在開催中の日本国際博覧会(大阪・関西万博)に関連するもので、1970年開催の大阪万博に展示された「万国博ホール壁書」についての詳細な記録です。

今回の万博でも、日本書芸院や毎日書道会などが、「書」を世界にアピールすべく、それぞれに趣向を凝らした企画展を開催しました。私も1970年の万博を見学したことがありますが、当時はまだ書の世界とは無縁の高校一年生であり、今井凌雪という名の書家がいることも知りませんでした。

 
 金石過眼録 −萩 信雄−

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前号で書いたが「褒斜道(ほうやどう)」を北桟と呼ぶのに対し、「金牛道」を南桟といい、秦の恵文王が蜀を征服した時の行路、「入蜀の正道」と称した。この地域をおさえれば漢水に浮かんで、一挙に東南の呉も衝(つ)くことができた。以上の記述は、漢中の戦略的位置の高さ、なかんづく軍事、経済の要略としての、「褒斜道」の重要性を示して余りあるものと言える。


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さてこの「開通褒斜道刻石」は、渭水の西岸沿いに褒城を北行すること約12キロメートルの地点に、石門と呼ばれる一岩峰がある(陝西省考古研究所「褒斜道石門附近桟道跡及題刻的調査」『文物』1964・1)。


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褒谷に沿うて屹立し、そのあたりの山勢はけわしく、絶壁は直ちに褒水中に侵入している。この石門の南250メートル、褒河西岸の岸壁に「開通褒斜道刻石」が刻されている。上述した馬衡(ばこう)の「中国金石学概要」中に説かれる摩崖刻である。この刻文の訳注は、『書法漢學研究』3(書法漢學研究会、2008・7)に拙訳が掲載されている。


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※図版は上から「石門遺跡」「石門山腹璧孔」「桟道想像復元図」

 

■お詫びと訂正
本誌36号 沈 伯陽「ケ散木「廁簡樓金石書法講座」に関する一考察 ― ?漢印屏二点を手がかりに」の注(P.28〜P.29)が、柏木知子・剣持翔伍「梅舒適と一九七〇年大阪万博の「万国博ホール壁書」について―二〇二五年大阪・関西万博の開催によせて―」の注と同じものになっていました。読者の皆様を始め、沈 伯陽、柏木知子・剣持翔伍、各氏には陳謝するとともに次号38号で改めて掲載いたします。改めまして、先ずはメールマガジンにおいて沈氏の注を掲載します。

【注】
(1)郭偉績『松?桐蔭館印譜』の自序により、「海虞林鶴田折衷前賢尤臻其妙」とあり、林皋は虞山印派の創始者と明示している。また、民国初年になったら趙古泥はまた、虞山印派の流派を基づいて新たに「新虞山印派」を派生した。ただ、現在の篆刻学界は両方に虞山印派あるいは虞山派を総称されている。ここに指す虞山印派は、趙氏を創立した新虞山印派である。
(2)趙古泥(一八七四〜一九三三)、清末民初の篆刻家・書家である。名は石、字は石農、号は古泥、晩年に泥道人と名乗った。蘇州府常熟県の人。現存の印譜は『拝缶廬印存』・『趙古泥印存』・『泥道人印存』・『趙古泥印存』などがある。
(3)鄒家?・董儉・周雪恆編『中国?案事業簡史』、中国人民大学出版社、一九八五年三月。ページ39〜41。
(4)高畑常信訳『篆刻の歴史と技法』、木耳社、一九八一年二月。
(5)北川博邦編『ケ散木印譜』、書学院出版部、一九八一年五月。
(6)北川博邦、佐野光一、蓑毛政雄、佐野榮輝、須田義樹訳『篆刻学』、東方書店、一九八一年六月。
(7)佐藤亙「ケ散木年譜」『中国言語文化研究』第四号、佛教大学中国言語文化研究会、二○○四年。ページ55〜75。
(8)丁福保編『佛学大辞典』に「廁簡子:又曰廁籌、拭屎之小木也。」とある。
(9)王泉根『中国人姓名的奧秘(二)??王泉根教授?名号』 、当代中国出版社、二〇一一年。ページ132。
(10)佐藤亙「ケ散木年譜」『中国言語文化研究』第四号、佛教大学中国言語文化研究会、二〇〇四年。ページ57。
(11)張建權・謝天福・謝天祥『ケ散木伝』、上海人民出版社、一九九六年五月。
(12)『ケ散木伝』(上海人民出版社、一九九六年五月。三千部限定)は、これまでに出版された唯一のケ散木の伝記である。ケ散木の妻である張建權が九一歳の時に口述した内容を、ケ散木の友人である謝天福・謝天祥が記録して編纂したものである。全文は十万字を超え、ケ散木の出生、就学、芸術活動から、晩年に共?党に右派の レッテルをはられたことまでを網羅している。
(13)原文は「在ケ鐵成名後、好多人?效、署名也用鐵字。ケ散木日久生煩、煩而生怒、怒而改名、故一九二五年改名為糞翁」とある。
(14)『社會日報』(一九三九年三月五月の第三版)。
(15)「糞翁之書刻講座」の記事に「翁比以問業者日?、特設講座於山海関路懋益里八十二号,専以指授金石書法」とある。
(16)「教育部関於在中学、小学、各級師範学校及工農業餘学校推行簡化漢字的通知」『中華人民共和国国務院公報』 一九五五年(二一号)。ページ1036〜1037。
(17)『篆刻學』 上編(人民美術出版社 、一九七五年五月第一版。第二章第一節官印−魏晉六朝印)
(18) 陳介祺『?齋藏古玉印譜』民国一九年(一九三〇年)神州国光社影印本、陳介祺『十鐘山房印舉』民国一一年(一九二二)涵芬樓影印本に当印が収録されている。




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